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執筆者の写真Itsuo Ueno

効率的は最善か?


  

現代は効率ということが重要とされます。効率的に勉強する、効率的に仕事をすることが大事だとよく言われます。


因みに、インターネットのグーグルで、「効率的な仕事」と検索を入れてみると、結果が7千8百20万も出てきました。それだけ、現代は効率を求めています。確かに現代は科学技術が進歩して、生活が便利になり、効率的に動くことができるようになりました。


私が留学でアメリカに来たのが1980年。その頃も自動車がいっぱい走っていました。フリーウェーを通って目的地に行く場合、どのフリーウェーを使って行けば混まなくてスムーズに行けるのかわかりませんでした。一番距離の短いフリーウェーに乗っても、途中で事故があって混んでいれば、諦めるしかありませんでした。


それに比べて、今は非常に便利になりました。混み具合を教えてくれるサイトがいくつもあり、出発する前に事前に調べれば、混んでいるフリーウェーを避けて行けます。時間を無駄にせず効率的に移動することができます。


聖書には、効率とは真逆の出来事がいくつも記されています。ルカの福音書15章は、有名な放蕩息子の話が書かれている箇所としてよく知られています。イエスキリストが、取税人や遊女たち、いわゆる当時、罪びとと呼ばれていた人たちと一緒に食事をしているのを見たパリサイ派の者たちや律法学者たちが、イエスキリストを批判します。それに対してイエスが例え話を三つされました。放蕩息子、100匹の羊のうち迷い出た1匹の羊の話、失われた銀貨の話です。三つの例え話に共通するのは、失われたものが見つけ出されたら大きな喜びがあるということです。



100匹の羊のうち迷い出た1匹の羊の例え話を考えてみましょう。効率という観点から考えると、迷ってしまう羊なんてほっとけばいいわけです。残りの99匹の方が数も多いし、多い方を世話する方が効率的です。迷い出た1匹の羊を探している間に、狼が来て99匹の羊が襲われたら大変です。それこそ、たくさんの羊を失って効率が悪くなります。この世の中の経済学、経営学から見れば、絶対に99匹の羊の方を大切にします。


聖書の価値観、神の人間に対するお考えは、効率とは全く逆です。神は失われたたった1匹の羊(人間)をどこまでも探し求めて行かれるのです。


なぜでしょうか。それは、人間は神のかたちに造られたからです。神のかたちに造られたということは、かけがえのない尊い存在であるということです。

旧約聖書のイザヤ書43:4に、「わたしの目には、あなたは高価で尊い」とあります。「わたし」というのは、創造主であられる神様のことです。「あなた」というのは人間です。高価で尊いと言われているのに、人間は神に逆らい、神から離れてしまいました。人間は、神の目から見たら、失われてしまった存在となりました。人間の方から勝手に、離れて行ったのですから、ほおっておいてもよかったのです。しかし、神の方から探して下さいました。


神から探してもらわなくても、人間の方から神様のところへ戻ればいいと思うかもしれません。それはできません。失われた銀貨の例え話を考えてみましょう。失われた銀貨は自分で持ち主のところへ戻れません。これは、人間は罪を持ったままでは、神のところへ戻れないということを意味しています。神に対して犯した罪は、神が赦して下さって、はじめて和解することができ、神のところへ戻ることができるのです。


神が人間を赦す方法も、神の方から準備して下さいました。それがイエスキリストの十字架です。人間が罪を犯した結果、罰を受けなければなりません。イエスは、その罰を十字架で身代わりとなって受けて下さいました。失われたところから回復する代償は、イエスキリストの血、イエスキリストの命でした。イエスの命をお金に換算しようとしてもできません。換算できないほど尊いものです。ということは、人間の価値はそれほど尊いのです。お金に換算できないほど、私たち一人一人の価値は高いのです。


この聖書の価値観がわかれば、私たちの生き方も変わってきます。もっともっと自分の価値を認めよう、神に造られた自分自身の存在を大切にしようとします。その次に、自分の周りの人たちの価値も認めて大切にしようと考えます。


そうすると、自分はダメだと思い込むネガティブ思考から解放されます。前向きに生きることができるようになります。効率を第一に考えると、人を切り捨てることが起こります。聖書の価値観に立つと、一人一人大切に考えるようになるのです。


上野五男

ぶどうの木国際教会牧師








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