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執筆者の写真加藤あやこ

健全な不信仰

ある人にイエス様の話をした時、その方がこう質問してきました。「あなたはどうやって信

仰に入ることができたのですか?」。その時、私はその方がなぜその質問をしたのかがわかりました。それは、神という存在がいるという事は信じている(もしくは信じたい)、でもイエス様が私の罪の代わりに十字架に架けられ死んで墓に葬られ、3日後に復活したという事を確信を持って信じられない、という思いです。おそらく、その方には、私が100%確信を持って信じていると見えたのかもしれません。


自分のことを振り返れば、確かに「信じていますか?」と問われれば「100%信じています」

と答えるでしょう。ですが、信仰生活とは「思い悩み、神へ質問、疑問を投げかけていく日々である」とも言えるのではないでしょうか。私たちはこう考えがちです。疑問を持つことは不信仰であるから、自分はクリスチャン失格なのではないか。また、これから信仰を持つ方の場合、信仰告白は、疑問がすっかりなくなってからにすべきではないか、と考える人もいます。




クリスチャン精神科医の工藤信夫先生は、その著書の中で「健全な不信仰というものがある

ことを私たちは知っていていいのではないだろうか」と述べています。また、自身の信仰生活を支えたものは、よく引用される聖句の逆の思いであったと告白しています。その聖句は「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。(ピリピ4:4)」です。その理由をこう言われます。


「信仰生活を振り返れば、いつも迷っていたし、悩んでいた。そしてその時に私の心にあったのは『果たして神は本当にすべての事態に関与しておられるのだろうか』という問いであった。しかし、言えることは、こうした神に対する素朴な疑問と探究心こそが、私を神に向かわせ、その関係を強固なものとしたということである。いわば、つぶやきや不平が私の信仰を豊かにしたのである(「信仰による人間疎外」いのちのことば社 工藤信夫)」。


神は心を見られるお方です。私たちがなぜ疑問を持つのか、どこに向かってつぶやきや不平

を言うのかを見ておられます。つまり、私たちの心が神に向かっているのか否かを見ておられるのです。


旧約聖書の時代、エジプトで奴隷生活をしていたイスラエルの民は苦役の果てに、神に導か

れ、モーセをリーダーとして出エジプトをしました。逃れた先である荒野で、水も食料もない現実の中、神に対して不平不満をぶつけました。「あーエジプトに帰りたい」「肉鍋が食べたい」「主はどこにおられるのか」と、これは一見不信仰に聞こえます。しかし、そんな民へ、神は岩から水を出し、天からマナ(パンのような食物)を降らせてくださいました。人々は、不平不満を言いましたが、それは全き信仰から出ていたものだったのです。なぜなら、民の心は100%神に向かっていたからです。その後イスラエルの民は神に完全に守られて40年間を過ごし、いよいよ約束の地カナンへ入りました。豊かなカナンの地で恵まれていたにもかかわらず、物質的豊かさという祝福の源を忘れ、民の心は偶像礼拝へ向かいました。神から離れてしまったのです。そのことを神が指摘され、預言者エレミヤを通して厳しい裁きの宣言がされています。神はイスラエルの民が不平不満を言っても、心が100%神に向かっていた荒野での事を覚えていると言われ、懐かしんでおられる姿がエレミヤ書2章に記されています。


信仰の決断は「神と向かい合う」という心の方向性を定めることと言えます。さまざまな理

解は、その後の歩みの中で少しずつなされていくものです。恵み深い神の世界は時間をかけないとわからないからです。その過程においては、例えば、桜が蕾でも満開でも散ってしまっても、どの段階の桜を見ても桜は100%桜であるといえるように、私たちの信仰がどの段階であっても心が神に向かっていれば100%の信仰であると言えるのです。神がそのように見てくださるからです。




神への理解は自力ではできないので、聖霊なる神の働きが必要となります。「神と向き合お

う」という「決断」をした時に、聖霊が内側に働かれ、その聖霊の働きによって、神のみことばへの理解と神のすばらしさが体験的にわかるようになるのです。決心した後も、全く迷いもなく、100%神に従える人間などいません。「神と向き合っていきたい」という願い(信仰)があるだけでいいのです。不完全な部分は十字架の上で流されたイエスの血によって赦されます。


信じたい!と思っても、どうすれば人は信じられるようになるのか、というテーマは大きな

課題です。


「神を信じる」ということも「神を愛する」ということも「疑問を持つ」ということさえ

も、「神と向かい合うことだ」とわかった時に、信仰者として生きる方向性が見えてくるのではないでしょうか。これは信仰の決心をする前も、決心をした後も、何十年もクリスチャン生活をしてきたとしても、すべての人間に共通していることです。信仰生活とは「今日、私は神と向かい合って生きるのか」という決断を毎日していくことだと言えます。




↓このテーマの礼拝メッセージはこちらから






ぶどうの木国際教会

ハワイホームチャペル

加藤 あや子

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