top of page

パラダイムシフト




コロナ禍によって働き方が大きく変わりました。それまではオフィスへ出向いて仕事をする

事が当たり前でしたが、ステイホームにより自宅で仕事をすることを余儀なくされました。コロナ禍が終わっても、そのリモートワークの便利さや効率の良さを選び、それを続けている人がいます。キリスト教会も日曜日に教会堂で集うことができなくなり、オンライン礼拝と称し自宅や出先からでも礼拝ができるようになりました。今では、対面礼拝と同時にオンライン礼拝も提供する教会が一般的となりました。


また、人との接触や外出が大きく制限されたことと、コロナ禍がいつ収束するのかわからな

いなかで、商店は、いかに人との接触機会を減らしながら売り上げを伸ばしていくかを考えました。接触を減らすための対策として、飲食店ではテイクアウトへの対応が当たり前になりました。また、人々はオンラインで買い物をする機会が以前よりはるかに増えました。

そのように、私たち人類は、しばしば歴史の中で従来の概念を覆したり、アプローチを変化

させたりして、新しい物の見方や方法を選択してきました。そのような出来事を「パラダイムシフト」と呼びます。


パラダイム(paradigm)とは、特定の時代や分野において支配的な規範となる「物の見方や

捉え方」のことを言います。その見方や捉え方を移動(シフト)することを「パラダイムシフ

ト」と呼びます。コロナ禍によるリモート化は、現代における典型的な「パラダイムシフト」と言えるでしょう。







科学においては、約500年前、天動説から地動説へパラダイムシフトしたことは有名です。

これにより科学の土台が大きく変わりました。また、技術の面でもパラダイムシフトは大事な役割を果たしています。インターネットの普及や人工知能の開発など、新しい技術への取り組みは社会全体に大きな変化をもたらしています。このようにパラダイムシフトは、社会、科学、技術、文化などさまざまな領域に及んでいます。特に現代はデジタル技術の発展により、その加速度を増していると言えます。


聖書の中にもそれはあります。イエス様は当時のユダヤ人に対して、パラダイムシフトをす

るように語られました。


外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、

人を汚すものなのです。(マルコ7:15)


これは、自分たちの行いや宗教儀式だけを重要視していた当時のユダヤ人社会に対してイエ

ス様が厳しく教えられたことばです。当時のユダヤ人は自分たちの戒律を形式的に守ろうとするあまり、弱者を虐げたり、人間性を軽んじ、戒律の作られた本質を忘れ、外側の体裁ばかりを整えようとしていました。そんな人々の心を試すかのように、イエス様は罪人と一緒に食事をされたり、安息日に穂を積んで食べる弟子たちをそのままにされたり、食事の前に手を洗う聖めの儀式をされなかったりしました。それらの行動を見て、当時のユダヤ人社会はイエス様をひどく非難しました。


イエス様は、そんなユダヤ人社会に対して「罪は人の内側にあり、外側にあるものは、その

人を汚さない」と言われたのです。


口に入るものはみな、腹に入り、かわやに捨てられることを知らないのですか。しかし、口

から出るものは、心から出てきます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、罵りは心から出るからです。これらは人を汚すものです。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。(マタイ15:17〜20)

これは、当時のユダヤ人にとっては、大きなパラダイムシフトとなる出来事でした。つまり

「あなた方が本当に気をつけるべきものは、行いや外から入ってくる汚れではなく、あなた方の内側にある罪なのだ」とイエス様は言われたのです。なぜなら、ユダヤ人は皆、戒律を守るという「行い」や「外側の汚れ」に焦点を当てていたからです。当時のユダヤ人社会は大きく動揺しました。


パラダイムシフトは、時にはそのことを理解できないと人々を不安に落としいれ、人間関係

に軋轢(あつれき)を生み、争いを引き起こす可能性があります。当時、イエス様の言われる

パラダイムシフトを受け入れられない人々によって、イエス様は十字架に架けられてしまったと言ってもいいでしょう。


人は皆、生まれながらの罪を持ったまま、生まれてきました。これを原罪といいます。人は

皆、罪人です。真面目に生きてきた人ほど、自分を罪人であると認識することは難しいものです。よってイエス様を救い主、贖い主と信じることが難しくなるのかもしれません。しかし、人は悪いことをしたから罪人になるのではありません、罪人として生まれてきたから罪を犯すのです。初めにアダムとエバが、神様の命令に従わず、禁断の木の実を食べたことにより、人類に罪が入りました。そのために父なる神はご自分のひとり子であるイエスキリストをこの世に送ってくださったのです。イエス様の十字架の犠牲によって、私たちの罪は赦されました。そのイエス様を信じることにより神の子とされ、永遠の命を持つことができます。それは、人の努力や善行を積むことによるのではなく、イエスキリストを信じる信仰のみによります。これは人類においての最大のパラダイムシフトであると言えるでしょうか。



⇩ このテーマの礼拝メッセージはこちらから






ぶどうの木国際教会

ハワイホームチャペル

加藤 あや子

閲覧数:5回0件のコメント

最新記事

すべて表示

Yorumlar


bottom of page