
「自分でなんとかしなければ」という強い強迫観念に襲われた経験は、誰にでもあるのでは
ないでしょうか。
誰にも迷惑はかけられないから、自分でなんとかしなければ
彼らは頼りにならないから、自分でなんとかしなければ
もう時間がないから、自分だけでどうにかしなければ
聖書の中にも私たちと同じような経験をした人たちが大勢いる
聖書の中でも、強い強迫観念に襲われた人たちの経験がたくさん含まれています。聖書で一貫しているところは、強い強迫観念に襲われつつも神と歩み続けた人たちは必ず揺るがない希望に辿り着いたというところです。
神がどのような方であられ、自分がどのような者であるかということを知る過程で、自分でなんとかしなければと言う強い強迫観念から徐々に解放され、愛の人につくりかえられていきました。
「自分でなんとか子供を産まなければ」と信じていたサラに、神の摂理によってイサクが与えられました。
「自分の力でなんとか同胞のイスラエル人を救わなければ」と殺人まで犯したモーセは、高齢者になってから神の方法でイスラエル人をエジプトから救い出しました。
「自分の力でイエス様についていくのだ」と言ったペテロが、数々の経験や失望を通して砕かれ、さらに自由にされた姿でイエス様についていくようになりました。
彼らが変わることのできた理由
なぜ神と歩み続けた人々はこのように変わることができたのでしょうか。それは第一コリント人への手紙13章に書かれている通りに、神様が愛なる方で、礼儀に反することを絶対にされない方だったからです。
神様は私たちと違って、礼儀に反することを決してされないお方です。つまりご自身がどのような存在なのか、私たちが人間がどのような者であるのか、決して忘れることなく、ご自身の計画を勝手に変えることなく、必ずそれにそって行動してくださるお方だからです。ご自分が創造主であられ、私たち人間は被造物であること。ご自分が主権者であられ、私たちに管理を任せていること、そしてご自分が救い主で、私たちが救いを必要としてることを神は決して忘れることはなさいません。必ずご自身の計画を進められます。私たちは全てを支配されている方の領域の中にに生かされています。それから外れることは決してありません。
旧約聖書に出てくるサウル王は神様の言葉を無視して、何度も自分の立場を弁える・理解ことをせず、礼儀を反しました。それにもかかわらず、そんなサウル王でも、その愛の方である領域から外れることはありませんでした。問題はサウル王自身がその愛に向かって方向転換しなかったことです。それゆえ最終的に悲劇的な結果をもたらすことになってしまいました。今の私たちにも、どんな礼儀に反することをしまったとしても、イエスキリストのゆえに立ち返る場所があります。重要なのは、私たちが方向転換するか否かです。
私たちも強迫観念から解放できる理由
私たちは誰が「本当の神」であるのかを思い出すことで、強迫観念から解放されることが可能です。自分でなんとかできると思っている限り、私たちは自分自身を神としてしまっている時が多いのではないでしょうか。「礼儀に反する」とは、最終的には自分の立場をわきまえないことです。神は常にご自分の立場やご自身が誰であるかを完全に把握しておられます。神はご自分が創造主であり、私たち人間は被造物であること、ご自身が主権者であり、私たちに管理を任せていること、そしてご自身が救い主であり、私たちが救いを必要としてることを決して忘れることはなさいません。第2テモテ1章7節に約束されているように、私たちはイエス・キリストによって「おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊」を得ることができます。この真実を思い出すことで、自分で全てを何とかしようとする思いから解放され、神に信頼して歩むことができるのです。
神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みの霊です。
第一テモテへの手紙1章7節
第一テモテへの手紙1章7節の着想から得た絵画と一緒に、考えてみよう♫
1 みなさんにも、強い強迫観念に襲われた経験がありますか。その時どのような思いが心にありましたか。恐れ、怒り、混乱、または孤独ですか。それぞれ自分の言葉で神様に正直な思いを伝えてみませんか。私たちを誰よりも知っている神様はそのような思いを受け取ることのできるお方です
2 絵画の中心に描かれた、嵐の中に咲き誇る木、その枝葉は緑(力)、ピンク(愛)、黄色(慎み)に満たされています。私たちの内にある恐れや怒り、混乱、孤独――そうした強い強迫観念の裏に潜む感情を、すでに神様が与えてくださっている「力・愛・慎み」と交換してみてください。
もし、一度手放したはずの恐れや怒りを、また無意識のうちに握りしめてしまっていることに気づいたなら、そのたびにもう一度、「力・愛・慎み」と取り替えてみましょう。

絵画の中心にある木は、聖霊を象徴する白いの細い線に包まれています。聖霊は、私たちが神の前で「わきまえる」ということを教えてくれます。なぜなら、そこにこそ本当の自由があるからです。
私たちが背負っている重荷の中には、無意識のうちに「わきまえない」ことから生じているものもあるかもしれません。たとえば、イエス・キリストが神で、私たちが神ではないと本当に理解していれば、すべての人を満足させようと必要以上に頑張ることはないでしょう。
「私は○○であって、○○ではない」ーーそう示されていることはないでしょうか。
4 「愛は礼儀に反することをせず」(第一コリントへの手紙13章5節)ーーこの御言葉を心に留めて、静かに黙想してください。
「(自分の名前)は礼儀に反することをせず」
このように置き換えて読んでみたとき、どのように感じるでしょうか。
私たちは時に、侮辱されたり、不当な扱いを受けたりすることがあります。しかし、どのような状況でも決して礼儀に反することをしなかったイエス・キリストの愛に、もう一度心を向けてみましょう。
もしかすると、神様は今、私たちに「愛に立ち返りなさい」と優しく招いておられるのかもしれません。私たちの日々の言動の中に、キリストの愛へと方向転換するよう促されていることはないでしょうか。
絵も解説も、とても素晴らしく、感動的です。
私は、4月第1週か2週目辺りに、帰国します。
皆さん、お元気でしょうか?
SJMにも, VIF教会の皆様にも、宜しくお伝えください。
ステパン金井 in Seoul 拝